教育ってなんだろうと、よく考えます。
いままた一つ言語化ができそうな気がしています。
それは、
「育む」ということなんだと思います。
大事なのは、テストの点数なのか?勉強をしさせた時間なのか?やったプリントの数なのか?
これらはどれも本質を表すものではないのです。
育むというのは、良い高校・大学に行かせることではなく、良い高校・大学に行く”その過程”なのだと思います。
100点をとることではなく、100点をとる過程が本質です。
実は昨日「私はどれだけ勉強をすればいいですか?」と生徒に質問をされました。
高校受験を控えて、少し心配になったのかもしれません。自分の将来について思いを馳せることは、良いことだと思います。
だけど、この質問には意味がありません。
なぜなら、彼女が期待する答えは、どこにもないからです。
<それを知っているのは君だけだよ。いつも僕と喋っているから、多分もうわかっていると思うけれど、どれだけ勉強すればいいのかの答えは”君が必要だと思うだけ”だよ。>
どれだけ勉強をすれば、良いかというのは、「どれだけ勉強をすれば”安心”できるのか。」という意味で、「どれだけ勉強をすれば、もう私は勉強をしなくて良くなるのか。」という意味なのです。
答えを聞いた生徒は少し考えてから、今の自分の状況について話し始めました。
どれだけの勉強をしているか。どれだけやらないといけないと思っているか。でもこれだけしか実際勉強をしていなくて、日々なんとなくの罪悪感を感じると。
昔はたくさんの時間勉強をしていた気がする。でも点数は取れなかった。それは、多分ちゃんと集中して、覚えようとわかろうと勉強をしていなかったからだと思う。
いまは、あまりたくさんの時間勉強をしていないけれど、その少しの時間をすごく集中をして勉強していると思う。
だから、今前より点数取れる。
集中できない。やる気がしない。でもやらないとだめだってわかる。毎日英語はやっている。でも多分理科からは逃げている。多分やらないとだめなのは、理科だと思う。
この生徒とは、1年と半年の間、毎週2回ほぼ欠かさずに、お話をしてきました。
一緒に勉強ではなく、一緒にお話です。
毎週2時間✕2回、じっくりと子供をお話をしてきました。
初めてあったとき、鋭い目つきでいろいろな方面に牙を向いていた彼女は、今は毎日笑顔で出迎えてくれて、学校のぐちをたくさん、笑顔で聞かせてくれます笑
いろいろと広く深く物事を見れるようになったと思います。
この前、社会のテストで100点をとったと教えてくれました。「やればできるし、たまたまやったから、できた」そうです。
大人は結局の所”応援”しかできません。
子供に変わって人生を歩いてあげたり、隣で助け続けることはできないです。
だから、出会えて話ができる少しの時間の中で、なにか掴んでもらえたらと思い、言葉と体と色と音楽と物語と、まぁいろいろな手段で伝えます。
究極のところ勉強は、教科書をちゃんと読んで市販の問題集を1冊終わらせて過去問を解けば、できます。
なのにできないのは、ちゃんと読みたくないし問題ときたくないし、いろいろやりたくないからです。
ジャニーズが好きな生徒とよく話すのは、推しメンが「勉強頑張って!」って横で囁いてくれるなら、いくらでも頑張るしょ?
うん! めっちゃ頑張る! オール100点とか余裕だわ!!
余裕です笑