「やる気の出ないことはやらなくていい」ってのは何度でも言いたい
“やる気”というキーワードについて、いままで何度か言及してきました。
先日ネットでこんな内容が話題になっていました。
>> 発達障害の子供が「やる気がないなら帰れ」と言われ帰ってきてしまった。「空気を読む」事を伝える難しさについて – Togetterまとめ
色々な人が色々な視点でコメントしています。
何が正解で、何が間違っているなんて事は無いわけで、各自色々と考える事が良いと思います。
このまとめでは『発達障害』や『空気を読む』などのキーワードが、事象を複雑にしているような気がします。
何に言及しようと、それ以外に言及している人にとっては、「それは違うよ!」と突っ込みたくなるように、問題が作られています。
“なんでもよい”という本質を感じられる典型の話題だと思います。
さて、私がこの話題において注目したいポイントは、やる気が出ないことをやらないということは、個人において正しいという事です。
この場合の正しいとは、不自然ではないという意味に近いでしょうか。
発達障害だというその子の側に立った時に、やる気が無いなら帰れと言われた段階で、帰る選択を取ることは自然です。
しかし社会的には、違います。
社会はやる気のない人間に、その気持の赴くままになにもしてもらえなかったら困ります。
どうしても習得してもらいたい技能があるし、それを行使して仕事してもらいたいわけで、いろいろな手段を駆使して個人にそれをやらせようとしてきます。
個人がやる気の出ないことをやったほうがいい場合というのは、やると利益を産んだりやらないと不利益を被る場合です。
この2つの例外ケースでのみ、やる気の出ないことをしたほうが良いといえるのです。
社会はこの例外へ状況を誘導するような仕組みや環境をたくさん用意していて、今回もそういう案件でしょう。
個人は、やったほうが良いなぁと少しでも思えることだけやれば良いのです。
まったくやる気の出ない≒やる必然を感じないことを、無理してやらなくていいのです。
私は「やる気の出ないことはやらなくていい」ってのは何度でも言いたいです。
あなたがやりたいと思えることをやって、あなたの人生を歩んで欲しいです。
そして、ここにおける例外は、
あなたのことをとても大事にしてくれていると感じる人のうち、将来を見通す力という項目において尊敬できる人がいうことは、やる気がでないことだったとしても、根性出してやったほうが良いということかと、僕は考えています。