現在分類されている生物の種類は、200万種 とwikipedia に記されています。

なんだか途方もない数字ですねぇ。

これ、誰かが200万もの名前をつけたってことですよね。

もちろん一人でつけたわけではなく、長い人類史において多くの学者が名付けてきたと思うのですが、すごいです。

「名前をつける」というのは、存在を表し、定義することです。

生き物は、ただそこに在るわけですが、名付けなしにはそれは境界のないフワフワとした概念です。

名前をつけた瞬間に、それとそれ以外が区別され、存在が確定するのだと、言おうと思えば言える気がします。

 

あまり筆が進まない生徒へ作文の指導をしていると、どうにもふわふわしている、と感じるんですよね。

伝えたいことがあるのに、境界がはっきりとしてなくて、さわーっと、ふわ~と、「このくらい」みたいな感じで、とてもだいたいな、そんな文章です。

知っている言葉が少ないので、そのふわふわを、上手に区切って確定されることが、難しいのだと思います。

こう、ザクザク、お好み焼きを切るような感覚で、自分の考えていることを区切って、提供出来るようになれば、文章を作っていても、楽しいいのではないでしょうか。

たくさんの作品に触れて、それらを楽しみ、知識を蓄積していければ、自然と知っている言葉、考え方が増えていって、自ずとザクザク出来るようになると思います。

 

『誰かにわかってもらいたい』

そんな思いを抱いて生きてきた私の人生でした。

どうしたら「”     ”」が伝わるのだろうかと、おそらくあがきなながら、生きてきたのだと思います。

自分の欲しいものが「”     ”」なわけですから、それが そもそもなんなのかわからずに、もちろん どこに行けばそれが手に入るのかも知らないままに、それでも、多分、人生それほど遠くない方向に進んで来れたんだと思います。

そうなんとなくでも肯定できるのは、私の欲していたものが、確かに今私の中に存在していて、感じ確かめることが出来るそれ故です。

 

パンプキン・シザーズ22巻にこんな描写がありました。

誰にも理解されたくない、いちばん大切な息子にすら理解されたくない、そんな大切な思いが、確かに私の中にある。(これセリフじゃなく、こんな感じの文脈があった)

私は、わかってもらいたい、わかりたい、わかり合いたい  そんな人生を歩んでいたので、この文脈は、ほぼ考えたことがありませんでした。

パンプキン・シザーズ大好きな漫画で、いつも気づきを与えてくれます。

ザクザクで、ふわふわを区切り続け、いろいろ明瞭にしてきたからこそ、今の穏やかな感覚があるのは、間違いないです。

しかし、そことは反対側?にも、これと同じように穏やかな世界が在るということに、気付きがありました。

「わかり合っている」と「誰にも理解されたくない」という2つの有り様の絶対値は、思いのほか一緒だったりするんですかね。